今朝、家のゴミをゴミステーションに持っていく途中に、息子と同じ登校班の友だちが私に向かって、「おはようございます!!」と元気よくあいさつを届けてくれました。私もそのあいさつを受け取って、うれしい気持ちになり、しっかりとあいさつを返しました。

これまでは、私を見てもあいさつをしてくれなかったその子は、なぜ急にあいさつをしてくれるようになったのだろうか?と、ふと疑問が浮かんできました。

そこで、私はピン!!ときました。

今回は、そのことについて、みなさまとシェアさせていただきたいと思います。


結論、その子が変わったのではなくて、私が変わったのです!?

最近、私が学んだことの中ですごく印象が強かったこと、それは、「心が先、現実が後」ということばです。これは、自分が心で思っていることが、現実となって後から追いついてくるという考え方です。

この5月、6月の間に、80分ゲームの主審を3回ほどやらせていただく機会がありました。私は、審判の仕事があまり得意ではないのですが、私が自分でやらないといけない状況でした。また、サッカー協会から、様々な方への「リスペクト」の精神を見直すような機会を文書でいただいていたこともあり、この審判をすることを通じて、改めて自分の「リスペクト」について見直すきっかけにしようと考えました。

1回目の主審では、いくつかファールを流してしまったこともあり、子どもたちの方から、アピールがどんどん増えていきました。勝負も拮抗していたこともあり、アピールがだんだんとエスカレートしていき、異議に変わっていきました。子どもたちに悪いな〜という気持ちがありましたが、これを許したら試合が大きく荒れてしまうかもしれないな〜というくらいの強い異議がありましたので、そこで警告を提示しました。私の中では、自分がうまくコントロールできていれば、出さなくてよかった警告かもしれないと振り返り、心に止めていました。

2回目の主審では、1回目よりはスムースに進行できていたように感じていました。しかし、後半にトラブルが起こってしまいました。私の中でしっかりと理解できていないことがあって、ジャッジに時間がかかってしまい、子どもたちにとても迷惑をかけてしまいました。その分のアディショナルタイムはしっかりと取りましたが、それでも申し訳なかったと感じていましたので、しっかりと謝りました。

以前から、選手にしても、ベンチスタッフにしても、「なぜ、審判のことを『敵』のようにとらえているのか?」と、とても疑問に思っていました。自分たちに優位ではない判定に対して、まず苛立ちや不満をぶつけて自己主張する…私も、そう感じたり、それを口にしてしまったりすることが、まれにありますが、それが嫌で、自分はそんな人間でありたくないと鍛錬しています。

そもそも、審判の方は、一緒に試合をつくっていくパートナーの存在です。審判の存在がなければ、客観的にルールの視点から、反則を判定することはできません。だから、審判は「敵」ではなく、なかまだと思うのです。ごくまれに、高圧的にジャッジをされる審判の方もおられるので、その言動から審判は「敵」だと感じてしまうこともあるかもしれませんが、本質的には試合を一緒につくっていくなかまのはずです。

私が自分の審判としての力不足を感じていること、そして、2回目の審判の際に、自分のミスで子どもたちに迷惑をかけてそれを謝ったことから、私自身も子どもたちに対して、変な思い込みを持っていることに気づきました。

私の判定に対して、いろいろとアピールしてきたり、思いや不満をぶつけてきたりしてくるのではないか?もし、それが起こったら、こうしよう…私の心の中にそんな思いがあったことに気がつきました。だから、それが子どもたちに「私の姿」として映っているということがわかりました。

3回目の審判をする前に、この試合は子どもたちが試合に集中できるように、私がジャッジでサポートすることを大切にしようと決めて、試合にのぞみました。すると、不思議なことに何もトラブルが起こることなく、スムースに試合を進めることができたと感じています。自分の思い通りにいかなかったことや疲れてきて動けなくなったことを、ジャッジのせいにする言動がごくごくわずかにありましたが、そこは聞こえていないふりでそっとしておきました。

自分の心の在り様で、目の前の世界がこんなにもちがうように見えるものなのか?ということを自分の実体験を通じて感じた出来事でした。


他にも不思議な出来事が起こりました!?

3回目の審判をする前に、うちのクラブと対戦してくれた対戦相手の子どもたちが私のところに来て、話をしてくれました。その子たちが私に何を伝えたかったか?その真意はわかりません。しかし、清々しい笑顔で、私に話をしてくれる様子から感じられたのは、試合をしていて、とても楽しんでプレーできたのではないか?ということを感じました。

その子たちは、当日11人しかメンバーがいませんでした。前半はなかなかうまくいかない中、疲れている後半の方がよいパフォーマンスを発揮していました。体を張ってシュートを打たせない粘り強さやGKの度重なるファインプレーに「素晴らしいプレー」を見せていただき、私も気持ちが熱くなりました。

後半、相手ゴール前に押し込む時間帯が長かったのですが、後半の最後は押し返されて、失点寸前まで持っていかれるシーンが度々ありました。

実際のところはわからないですが、お互いに心に残るものを感じ合うことができるような試合ができたことは、とてもうれしく思いますし、素晴らしいことだな〜と感じました。

これも、私が対戦チームのことを「敵」だと見るのではなく、一緒に切磋琢磨する「なかま」であると心思っているから、そう映るのだと思います。

プエデの子どもたちには、日々伝えているのですが、なかまが全力でプレーしてくれるからこそ、こちらも全力でやらないと相手を上回れないような状況に追い込まれて、自分たちの力を引き出してもらえる…だから、相手どうのこうのではなく、まずは自分たちが全力を出し尽くすことを忘れないようにしよう…これは、子どもたちに伝えていることですが、自分への戒めもあります。

私にも不足がありますので、それを自分で変えていくことも含めて、子どもたちと一緒になって成長していきたいという心で日々の活動に取り組んでいきたいと思います。


目の前に映る現実は、自分の心が映し出している!?のまとめ

その日の帰りには、あるご家族が幼いお子さまと一緒に遊んでおられる様子がとても素敵だな〜と感じていました。その子が水鉄砲で水を飛ばして遊んでいると、お母さんがこちらに気遣いをしてくださり、「人が通るからちょっとだけ待とうね!」と伝えてくださっていました。

その子がすごく楽しそうに遊んだいたのが、私にもすごく伝わってきて、私が通ることでそれが一時ストップしてしまうのが、何か申し訳なく感じましたし、その瞬間しかない「楽しさ」を大切にしてあげたいと感じましたので、「おじさんも、暑いからお水をかけて欲しいくらいだな〜!」と伝えたら、その子はとてもうれしくなって、私に水をかけようと必死になって水鉄砲から水とピュンピュン飛ばしていました。

そんな姿を見て、その子の気持ちに触れることができたことを心からうれしく感じましたし、この子が水鉄砲の遊びを楽しみ、熱中していたように、私もサッカーを楽しみ、熱中できるような環境づくりをして、子どもたちがよりサッカーを楽しみ、熱中できる体験をたくさん提供したいという思いが強くなりました。

世の中には、残念ながら不機嫌な人もいます。そんな不機嫌な心から映る現実を私は求めたくありません。私は水鉄砲を夢中で楽しむお子さまのように、澄んだ心で、自分の目の前の現実を楽しみ、味わえるような人生を送りたいです。そのためには、まだまだ学びが足りません。

自分が望む現実が自分の目の前に現れるように、これからも私自身の内面を見つめながら、私の心を磨いていきたいと思います。

こんな今の自分があるのも、これまで私に関わってくださった方々のおかげです。私は病気でもありませんし、死ぬわけでもありません(笑)。日々あっという間に過ぎ去っていく毎日の中で、時々歩みを止めて、こうして自分に起こった出来事を振り返る機会をつくることは、これからの生活を「やさしく」照らすきっかけになるのではないかと考えています。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

どうか、この記事を読んでくださった方に、少しでも元気をお渡しできますように、少しでもお役に立てますように、心から願っております。